- ayako12
記憶
こんばんは。日本時間では今頃日曜夕方7時。ここマウイでは間も無く真夜中、日曜に日付が変わるところです。雨音に混じって、虫の声、遠くからガマガエルの声とヤギの声もしています。ヤギはこんな時間でも起きているのかしら?
なんとなく、(私はこのなんとなく、というのが多いのです(笑い))、記憶について書いてみたくなりました。
子供の頃から記憶力はよかった方で、テストで得したこととか、人の話を覚えていたり、記憶がいいってことはラッキーなことだ、とつい最近までずっと思っていました。
でも、記憶ってもちろん役に立つことも多い反面、いっぱいあるとなかなか窮屈なものなんですね。
先日ある男性が、カイロプラクターに行ったら、”あなた5歳くらいの時におもいっきり人に打たれたんじゃない?”と先生に言われた、というお話をされていました。ちなみに彼は40代後半です。驚いた彼に、カイロの先生は” この鏡で自分の目を見てごらんなさい。5歳のあなたをぶった人の目が見えてくるはずだから” と言い、彼は最初、思い出したくもない、と拒否したそうなんですが、その首の痛みをこれから先ずっと患ったままで生きていくのか、と説得され、恐る恐る彼は渡された鏡に映った自分の目をじっとみつめたそうです。目をそらさずジーッと目の奥を見つめていたら、その目は5歳の彼をぶった女性の目に見えた、と。その瞬間彼は気づいたそうです。ああ、全ては鏡なんだ、と。相手は自分なんだ、と。そう気づいた時、彼はその時の体の痛みと心の痛みを思い出し、沢山涙を流したそうです。そして、打った女性を初めて許すことができた、それは首の痛みとそしてそれ以上に心の大きな癒しだったと。
人は多くの場合、あまりにも痛みを伴う記憶は奥深くしまって思い出そうとはしない。思い出すのが辛すぎて耐えられないかもしれないと恐れるから。でも、思い出さずにいる記憶は手放すことができない。痛かった、辛かった、と自分が認識してあげないと、それは行き場のないまま、心の奥深く封印されて気づかれないまま、持ち越されてしまう。多分、私たちは多かれ少なかれ、そんな風にして持ち越してきた今世よりも前からの記憶を持っている。
記憶を思い出し、手放し、浄化させること。それはだから、なかなか大変なワークなのだ。手放すワークをしていると、涙が沢山流れる。それはとてもいいことなのです。涙の浄化作用はとても効き目がある。そして、スッキリしたら今度は愛を痛みの記憶が抜けたところに入れてあげよう。これまで記憶を手放せずにいた怖がっていた自分に、大丈夫だよ、今までありがとう、と。
